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最高裁判所第一小法廷 昭和36年(あ)2313号 判決 1966年3月24日

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

本件弁護人および被告人本人らの上告趣意は、きわめて多岐にわたっており、その中には重複した主張や繰り返しとみられるものも含まれているが、これを要約すれば、弁護人の論旨の多くが憲法違反(一一条、一三条、三一条、三二条、三六条、三七条、三八条、七六条等)を主張しており、若干判例違反を主張するものもあるが、その他はすべて、訴訟法違反を含む単なる法令違反の主張および事実誤認の主張に帰するものということができる。そして、所論違憲の主張や判例違反の主張は、おおむね訴訟法違反ないし事実誤認を前提とするものであり、けっきょく論旨は、(1)捜査官の拷問があったとして自白の任意性を争う主張、(2)自白が相互に矛盾することや、自白にもとづく被告人らの行動が現実的、合理的でないことなどを挙げてその信用性を争う主張、(3)昭和二七年二月一九日の貨車暴走事件が自然流出事故であるとの主張、(4)被告人らのアリバイに関する主張、および(5)検察官に対し証拠の開示を求める主張、などに重点が置かれている。

ところで、単なる法令違反、事実誤認の主張は、もとより刑訴法四〇五条の上告理由に当らないものではあるが、被告人らは原審において(一部被告人については第一審以来)、本件各列車妨害事件とは関係がない旨を主張しており、けっきょく、第一審判決を維持した原判決に、事実誤認、審理不尽などの訴訟法違反のあることを極力主張しているのである。

そこでまず、職権をもって、原判決につきこの点の有無を検討する。

第一  本件公訴事実の大要。

本件公訴事実の大要は、第一審判決の確定したところによれば、国鉄青梅線で発生した前後五回にわたる列車妨害事件である。すなわち、被告人ら八名および第一審相被告人で現在公判手続停止中の岩井金太郎、石田春雄は、八名ないし一〇名共謀の上、第一、昭和二六年九月一七日夜、小作駅構内二一号転轍器に石を詰め、二二、二三号転轍器を定位から反位に切りかえ(第一審判決判示第一事実。九月一七日事件と略称。)、第二、同年一〇月一日夜、小作駅東方第三踏切附近に踏切警標を抜いて横たえ、河辺駅東方の線路上にも枕木一本と勾配標を抜いて横たえ(同第二事実。一〇月一日事件と略称。)、第三、同月三日夜、小作駅西方第三踏切に石を詰め、その附近の線路上に粁程標を抜いて横たえ、同駅西方線路北側にある鉄道用電柱をのこぎりで切り、さらに同駅東方第五踏切に石を詰め、同第四踏切附近に踏切予告標を抜いて横たえ(同第三事実。一〇月三日事件と略称。)、第四、同年一二月八日夜、福生駅構内五四号転轍器を定位から反位の中間まで移動させ、現場にさしかかった上り立川行二〇〇八電車を脱線させ(同第四事実。一二月八日事件と略称。)、第五、昭和二七年二月一九日朝、小作駅に停車中の下り一六三貨物列車後部残留貨車四両を、二両ずつに切りはなして二回にわたり羽村駅方面に押し流し、線路の下り勾配を利用して羽村駅を通過、福生駅まで走らせ、同駅の車止に激突させた(同第五事実。二月一九日事件と略称。)との五つの列車妨害事件である(ほかに被告人宇津木に対する強盗予備、窃盗事件〔同第六事実〕があるが、これについては上告趣意になんらの主張がない。)。そして、被告人らおよび岩井金太郎、石田春雄の一〇名は、右五つの列車妨害事件の全部又は一部の実行に加わったものとして(すなわち、被告人山下は一〇月一日、一二月八日事件には関与せず、石田は九月一七日、一〇月一日事件に関与しない。)起訴され、被告人らについてはいずれも第一審で有罪とされ、原判決もこれを維持している。第一、二審判決の認定を前提とするならば、右五つの列車妨害事件は、これに先立って昭和二六年九月一四日頃行われたいわゆる平和亭謀議による一貫した計画的犯行とされているところから、互に無関係な犯行とはいえないこととなるのである。

第二  第一、二審における本件審理の経過。

第一審裁判所は、右公訴事実につき、昭和二八年六月二〇日第二回公判期日に、被告人中垣好一を除く被告人ら九名を併合して審理を開始し、刑訴法二九一条所定の冒頭手続を経た上、検察官より証拠請求があり、同年七月四日より同月二五日まで現場検証、法廷外の証人尋問等をなし、同年八月一〇日右九名の被告人らを、被告人中垣弥一、同野崎邦夫、同山下寅吉、同大沢清および石田春雄の、冒頭手続で公訴事実を否認した組(以下否認組と称する。)と、被告人宇津木作一、同西村高見、同池田信二および岩井金太郎の、冒頭手続で公訴事実を自認した組(以下自白組と称する。)の二組に分ち審理する旨の公判手続分離決定をなし、爾来否認組につき同年八月一五日の第三回公判期日から同三二年三月一一日の第七六回公判期日に至るまで七四回の公判期日を開き、その間被告人中垣好一に対し、昭和二九年四月八日前記列車妨害事件の公訴事実全体について公判の請求があり、同裁判所は同被告人に対し冒頭手続をしたところ同被告人は公訴事実を否認したので、昭和二九年五月八日の否認組の第一五回公判期日に同被告人を前記否認組の被告人らと併合し、爾来第七六回公判期日に至るまで併合審理をなし、自白組については、昭和二八年八月一五日の第三回公判期日より同三二年二月一三日の第一四回公判期日まで一二回の公判期日を開き審理を遂げ(ただし、被告人石田春雄および同岩井金太郎についてはいずれも病気のため、途中より公判手続を停止した。)、同年一一月四日の否認組第七七回公判期日において、否認組、自白組の被告人らを併合して右石田、岩井の両被告人をのぞく本件被告人ら八名に対し、第一審判決を言い渡した。控訴審たる原審裁判所は、昭和三四年七月一日右被告人ら八名(控訴審においては全員が公訴事実を否認した。)に対し第一回公判期日を開き、爾来同三五年七月六日まで前後一八回の公判期日を開き審理を遂げ、同三六年五月一二日の第一九回公判期日において原判決を言い渡したものである。

第三  当裁判所の判断(二月一九日事件を中心として。)。

本件公訴事実の重点は前期のごとき五回にわたる列車妨害の事実であるが、その中でも二月一九日事件は、他の四つの事件と比べ、論旨において問題とする点が多いので、まずこの事件について検討する。

一、サイドブレーキがかかっていたかどうかについて。

原判決の維持した第一審判決が認定したところによると、二月一九日事件の犯行は、おおむね次のようにして行われたことになっている。すなわち、

「昭和二七年二月一八日夜、被告人ら一〇名は小作駅構内で貨車流しを行なうことを共謀し、各自その分担を定めたが、適当な貨車が停車していなかったので、同夜は全員被告人野崎の間借先である鈴木ロク方に休憩し、翌一九日早朝全員清水イシ方裏の生垣附近に到り、貨物列車が小作駅に到着するのを待機し、貨車一三両連結の下り一六三貨物列車(立川発河辺駅行)が午前六時三九分同駅三番線に停車し、同駅駅員藤原一雄、小岩井達雄の両名が貨車入替のため同列車後部四両を同線ホーム東寄り附近で切りはなして残留し、同列車の機関士らと共に同駅西方でその余の貨車九両の入替作業をしている不在中に乗じ、被告人中垣好一の合図の下に残留四貨車附近にかけつけ、被告人大沢、同野崎、同中垣好一はそれぞれ見張をし、被告人宇津木および岩井金太郎の両名は、右貨車後方より二両目南側のサイドブレーキを外し、被告人西村、同池田の両名は、右貨車二、三両間の連結器を切断し、被告人山下、同中垣弥一および石田春雄は、右貨車二、三両間のゴムホース(空気ホース)を解放して、各二両ずつに切りはなしたうえ、被告人中垣好一、同中垣弥一、同宇津木、同池田、同山下、同野崎および岩井金太郎は、力をあわせて東側二両の貨車を東方福生駅方面に押し出し、小作駅東方第一踏切附近で突放し、ついで被告人中垣好一、同中垣弥一、同野崎、同西村、同池田、同大沢は、残り二両の貨車を押し出し、これも同踏切附近で突放し、線路の下り勾配を利用して福生駅構内まで暴走させた。」というものである。

右認定事実によれば、被告人らが本件残留四貨車附近に到着したあと、まず被告人宇津木および岩井金太郎の両名が、後方より二両目南側のサイドブレーキを外した、というのであるから、このサイドブレーキがかかっていたことが前提であり、果してこれがかけられていたかどうかが原審における争点の一つになっているのである。

(一)  第一審判決が証拠として掲げている一部被告人らの自白(たとえば否認組の関係では、被告人宇津木の第一審第八回公判廷における証人としての供述、同西村の第一審第一八回公判廷における証人としての供述、同池田の昭和二八年四月一一日附検察官調書謄本など。自白組の関係では、被告人宇津木の昭和二八年四月九日附、同月一五日附、同年五月一日附各検察官調書、同西村の同年四月一〇日附検察官調書、同池田の前記検察官調書原本など。)によれば、これら被告人は、サイドブレーキの点について右認定に副う供述をしているばかりでなく、サイドブレーキを外すことが予め実行行為の分担を決める際すでに予定行動の中に組み入れられていた趣旨の供述もしているのであるが、これら一部被告人らの自白をのぞいては、右サイドブレーキがかけられていた事実を直接明確に認めうる証拠がない。

しかし原判決は、小岩井達雄の昭和二八年四月一四日附検察官調書(否認組関係)第一〇項に、「一〇ないし一三の貨車(本件残留四貨車)を九から放した時、一〇ないし一三の貨車のどれかにサイドブレーキをかけたかどうかは記憶しません。サイドブレーキはこのように貨車を解放し、残留する場合必らずかけるように先輩から指導されており、その当時も必らずこのような場合残留車両のどれかにサイドブレーキをかけていましたが、この場合は藤原や私がそのブレーキをかけたかどうかはっきりしない。ただいつもその様な場合サイドブレーキをかけることは習慣になっていたから藤原か私がかけたことは間違いないと思う。」とあること、証人鈴木頼之の第一審否認組公判廷の証言に「四両残留したときサイドブレーキをかけるのがほんとうである」とあるのに徴して、証人藤原一雄、同小倉孝義の、本件のような場合サイドブレーキをかけないのがふつうであった旨の第一審各証言は一般論に過ぎないものとして排斥できること、小作駅では押込みによる残留貨車にもサイドブレーキをかける建前になっていたものと認められること、貫通制動に依存してサイドブレーキをかけないことが一般の場合の慣行であるとしても小作駅のごとき下り勾配のある線路の場合に当然それが通用するといわれないし、本事件当日もその一般の場合の例に漏れないものとは断定できないこと、当時サイドブレーキをかけない建前になっていたとすれば、予めこれを実行行為の分担に組み入れるわけがないこと、などを理由として、けっきょくサイドブレーキがかかっていたことを否定する資料がないから、右小岩井の検察官調書により、同人または藤原のいずれかによって現実にサイドブレーキがかけられていたものと認められる旨判示しているのである。

(二)  ところで、本件貨車四両を残留する際、そのどれかにサイドブレーキをかけたとすれば、証拠上、その場で残留四貨車と他の九両との間の連結器の解放作業に当った小作駅駅員小岩井達雄、同藤原一雄の両名のうちいずれかによってかけられたと考えるほかないのであるが、前記小岩井の検察官調書の記載によれば、「この貨車の場合は私と藤原と二人で連結器を切り、私は貨車の入替の為西の方に急いで行ったりしていたので、藤原や私がそのブレーキをかけたかどうかはっきり思い出せません。只いつもその様なサイドブレーキをかける事は習慣になって居りましたから藤原か私がかけた事は間違いないと思います。」となっている。

このように、小岩井の供述は、入換の方に急いで行ってしまったりしているので、自分はわからないが藤原がかけたことに間違いはないと思う、という程度のものであって、同人の「サイドブレーキは藤原がかけたかもしれないが自分はかけない。」あるいは「記憶ない。」旨の第一、二審証言(否認組関係で第一審第三四回公判証言、第六六回公判証言。全被告人関係で原審昭和三四年一一月一三日証人尋問調書。)の趣旨も、決してこれと相反するものではないのである。

一方藤原一雄は、第一審以来「自分は、残留貨車四両に制動(貫通制動のこと)がかかっているかどうか確かめるため制輪子を足で蹴って見たが、ブラブラしなかったので制動がかかっていたと思い、サイドブレーキはかけなかった。」旨を証言(否認組関係で第一審第三六回公判証言。全被告人関係で原審昭和三四年一一月一三日証人尋問調書。)している。要するに小岩井、藤原の供述によってもサイドブレーキがかかっていたことは、的確には、認められないのである。

また原判決は、小作駅では押込みによる残留貨車にもサイドブレーキをかける建前になっていたものと認められる旨を判示しているけれども、証人鈴木頼之、同藤原一雄の各第一審第六五回公判証言、同小岩井達雄の第一審第六六回公判証言(いずれも否認組関係)などによれば、押込というのは、貨車の入換作業をする場合の、突放(機関車で貨車を突き放し、その惰力で貨車のみを走らせるもの)に対応するやり方であって、機関車で所定の位置まで貨車を押して行き停止してから切りはなすのをいうことが認められる。しかるに第一審判決の確定したところによれば、本件では、一三両連結の下り一六三貨物列車が立川駅方面から小作駅三番線に到着停車した後、同列車後部四両を同線ホーム東寄り附近で切りはなして残留し、機関車は他の九両を西方に牽引して行ったというのであるから、本件残留四貨車は押込みによって残留したものとはいえず、右の建前がそのまま通用するものとは思われない。本件残留四貨車のように、運行中の貨物列車の一部を他の部分の貨車が入換作業をする間だけ一時切りはなして残留するような場合には、貫通制動さえきいておれば入換終了後の作業の手間がはぶけるわけでもあるから、本件一六三貨物列車に乗務していた小倉孝義車掌が、第一審で「サイドブレーキは入換中には使わない」旨を証言(否認組関係で第一審第三六回公判証言。)しているところが、むしろ本件残留四貨車に即した方法であるかもしれない。してみれば、残留貨車の後部より二両目の貨車にサイドブレーキがかかっていて被告人宇津木、岩井の両名がこれを外したとの事実は、疑いを容れる余地があるといわなければならない。原判決が「小岩井又は藤原のいずれかによって右後部より二両目の貨車のサイドブレーキがかけられていたことは、これを否定するに足る資料は発見せられないが故に、前示供述調書の記載により右両名のいずれかによって現実にサイドブレーキがかけられていたものと認めるにかたくないところである。」旨判示し、第一審判決の認定を是認しているのは、たやすく首肯することができない。

二、本件貨車が二両ずつに切りはなされたかどうかについて。

二月一九日事件の前記第一審判決認定事実によれば、被告人らは、本件残留四貨車を各二両ずつに切りはなしたうえ、二回にわたり押し出したというのであり、一部被告人らはいずれもこれに副う自白をしているのであるが、果してそのように切りはなされたものかどうかが、これまた大きな争点の一つとなっている。

(一)[1]  証人橋本茂男の第一審証言(否認組関係で第一審第六回公判証言。)、同人作成の答申書(自白組関係)によれば、本件残留四貨車が小作駅から福生駅へ向う途中、羽村駅を通過したときには四両連結された状態で逸走した事実が明らかである。そして連結器それ自体は、その構造上、一たん切りはなされても、互いにぶつかり合えばピンが落ちて自動的にまた元のように連結されてしまうことが証拠上うかがわれる(否認組関係で証人鈴木頼之の第一審第三四回公判、同藤原一雄の第一審第六五回公判各証言。)。けれども、本件残留四貨車のように、運行中の貨物列車の一部として正常に連結されているものを切りはなす場合には、連結器自体を切りはなすとともに、貫通制動用の空気ホースを解放する操作をしなければならないのであるから、残留貨車四両が二両ずつに切りはなされたかどうかを検討するについては、後部より二両目の貨車と三両目の貨車との間の空気ホースが連結していたか、あるいは解放されていたかを確定することを要する。その手がかりとなる唯一の資料は、本件残留四貨車の後部から二両目の貨車「ト」二五〇一一号と三両目の貨車「トム」一〇五七号との間の連結部分が写っている岸野正輝巡査撮影の「昭和二七年二月一九日発生せる国鉄青梅線小作駅より福生駅間貨車暴走脱線事件の現場写真」(否認組、自白組関係につきそれぞれ取り調べられている。自白組の方は謄本。)第三図であり、これを資料として鑑定人西岡直人が否認組関係について第一審で鑑定をしているのであるが、その作成にかかる鑑定書には、次のように記載されている。

『鑑定事項

1 昭和二七年二月一九日福生地区警察署巡査岸野正輝撮影の写真第三図によって

(1) 貨車「ト」と後続貨車(「トム」一〇五七号を指す。)との間の空気ホースは解放されているか。

(2) 該貨車の空気ホースは空気ホース連結器塞ぎ鎖に接合されているか。

(3) 該貨車の肘コックは開通されているか。

の各項を判定するのであるが、これは綜合的に考える必要があるので取纒めて取扱うこととする。

上記の各項につき、本写真のみによって調査するとそれぞれに示す根拠に基いて二つの見解が生じてくる。しかしてこの内の何れかと判定するためにはさらに別の条件が存在しない限り極めて困難なことである。

次に見解並びに根拠を述べる。

〔見解[1]〕

国鉄従業員または車両取扱いの知識を有する者が作業した後の状況としてこの写真をみる場合は「両者の空気ホースは連結されており、肘コックは開通されている」と解釈できる。

(根拠)

(イ) 「ト」二五〇一一号車の空気ホース塞ぎは写真には撮影されており、かつ空気ホースはこれと連結されていない。

(ロ) 後続車の空気ホースは連結器下部に屈曲して入り込んでおり、解放されて垂れ下っていない。このことは空気ホースがホース塞ぎにかけられているか、このホースが相手方のホースに連結されていることを示している。

(ハ) 後続車の肘コックは写真が不鮮明であるから断定はできないが開通されているようにみられる。

(疑問点)

(a) この角度より撮影された場合は空気ホースが相互に連結されている場合も、解放されている場合も空気ホースの先端の一部は撮影されていなければならない。

しかるに本写真にはこれが撮影されていない。これは空気ホースが相互ともに異常な状態にあるのではないかということが考えられる。

(b) 写真でみる後続車「トム」の空気ホースの屈曲状態はホース塞ぎにかけられている状態に近い。

〔見解[2]〕

見解[1]に残されている疑問点を主体とし、この車両が衝突事故後の状況であるということ等を併せ考えると「ト二五〇一一号車の空気ホースは既に根元から欠損し、脱落している。後続車の空気ホースはホース塞ぎにかけられている」という解釈も成り立つが、このように解釈するためには(この写真を撮影したときにト二五〇一一号車の空気ホースが脱落して終わっていた)という物的乃至はこれに匹敵する証拠がない限り断定できない。』

以上が西岡鑑定書の記載であるが、同鑑定人の第一審証言(否認組関係で第一審第六七回公判証言)もおおむねこれを補足する趣旨のものである。ただし第一審判決は、右鑑定書および同人の証言のいずれも証拠として掲げてはいない。

このように右鑑定書は、断定こそしていないけれども、一応結論として、見解[1]、見解[2]という判断を示しているのである。もっとも、鹿志村庚二作成の昭和二八年四月一日附被害届(自白組関係。なお否認組関係で同人の第一審第五回公判証言も同一内容。)には、「ト」の貨車の破損個所に空気ホース欠損脱落の記載がないのみならず、本件記録上、これが欠損脱落していたことを認めうる証拠がないので、そのような証明があることを前提とする見解[2]は、この場合、さしあたり採用の限りではない。そこで問題は、同鑑定書に、見解[1]として、「ト」と「トム」の間の空気ホースが連結されていると解釈できる趣旨の判断が示されている点である。

[2]  第一審判決は、右西岡鑑定を採用しない理由として、(1)同鑑定は、種々の角度から空気ホースの連結、解放状態を観察しているけれども、高度について考慮を払っていないので、垂れ下った空気ホースが「あおり止め」の背後にかくれて見えない場合のあることを看過していること、(2)後続車(「トム」一〇五七号)の肘コックがかりに開通されているとしても、前車(「ト」二五〇一一号)の肘コックを閉めれば、後続貨車は二両であるからその空気ホース中の空気の圧力は比較的少く、これを解放することが容易であり、また肘コックを開通したまま空気ホースを解放すると後続二両に非常制動がかかるけれども、その各ゆるめ弁を引くならば、容易に緩解できること、の二点を挙げて、けっきょく「ト」と「トム」の間の空気ホースが連結しているものとは断じがたいとし、さらに「寧ろ、下り線ホームと三番線との間隔に鑑み、犯人が貨車の南側から操作したものであり、前車の肘コックは前方に引いて閉鎖するもので容易なところからこれを閉鎖し、後続車の肘コックは向うへ押して閉鎖しなければならず比較的困難なところからこれを放置した侭空気ホースを解放し、後続車の空気ホースは前方に引いて塞ぎ鎖にかけるもので容易であるから、これを塞ぎ鎖にかけ、前車の空気ホースは向うへ押して塞ぎ鎖にかけるもので比較的困難なのでこれを放置し、次いで後続車二両の各緩め弁を引いて緩解したものと断ずるの外なく」と判示して、被告人らが変則的な連結切りはなし方法をとったことを認定している。しかし被告人らがかかる変則的な連結切りはなし方法をとったとの直接の証拠は、記録上少しも存在しない(右西岡鑑定もかかる方法で車両を切りはなしたと断定しているものでないこと論をまたない。)。しかるに原判決も、右第一審判決の説示をきわめて妥当であるとして是認したうえ、「同鑑定書見解[1]についての疑問点として記載されているところにもあるごとく、空気ホースの先端の一部が撮影されていないことにより、空気ホースが相互とも異常な状態にあるのではないかと考えられること、及び写真で見る後続車(トム)の空気ホースの屈曲状態は、ホース塞ぎに掛けられている状態に近いとあること、などよりみて、同鑑定の見解[1]として(両者の空気ホースは連絡されている)との結論は、原写真の不鮮明に福生駅車止めに激突したショックによる複雑な条件も加わっていることからして、にわかに採用しがたく、原判決の説示するごとき、空気ホースの解放後のホース処理及び緩解措置も考えられるところであり、とくにかつての小作駅員として貨車取扱の知識を有する主謀者山下の指揮下における作業としては首肯されるところ……」と判示しているのである。

[3]  しかしながら、第一審判決が西岡鑑定を採用しない理由として挙げている(1)について考えてみると、同判決は、このような場合のあることの例として昭和三一年一一月一九日施行の第一審検証調書(否認組関係)添付写真第一九を援用しているのであるが、かりに西岡鑑定が、右写真一九のように空気ホースがあおり止めの背後にかくれる場合のあることを看過しているとしても、直ちに、鑑定書の見解[1]に影響をもつものとは思われない。

さらに第一審判決は、理由の(2)として、被告人らがその判示するような変則的方法により、「トム」の肘コックを開通したまま二両ずつに切りはなしたと断定しているのであるが、この認定自体は、むしろ同鑑定の見解[1]の根拠(イ)や(ハ)を資料としているものであることがうかがわれる。しかも、前記鑑定人西岡直人の第一審証言、証人藤原一雄の原審証言(全被告人関係で原審昭和三四年一一月一三日証人尋問調書。)、同湯山武男の原審証言(同じく原審第一二回公判証言)によると、連結した貨車を切りはなす際、双方の貨車の肘コックを閉めれば比較的容易に空気ホースを切ることができるが、貨車の肘コックを閉めないままで空気ホースを切ることは、大変な力が必要であり、ホース中の空気の圧力によってホースがはね返り怪我をするおそれがあるから、肘コックを閉めずにホースを切ることはなく、もし肘コックを閉めないままで空気ホースを切れば非常に大きい音がするというのであり、また、一方の貨車の肘コックを閉め、他の一方の貨車の肘コックを開いたまま空気ホースを切る場合も同様で、ホースの先の金具が上下左右に振動して危険であるというのであるから、原判決のいうような貨車取扱の知識を有する被告人山下の指揮する犯行としては、まことに慎重を欠く不自然な行動と考えられるし、そのような危険を冒さなければならないほど、「トム」および「ト」の両貨車双方の肘コックを閉める作業が困難であるとも思われない。また被告人らが、各貨車のゆるめ弁を引き、補助空気溜の空気を抜いてから肘コックを閉めずに空気ホースを切りはなしたとしても、各貨車の制輪子がゆるんで貨車を押し出すまでに十分な時間があったかどうか疑いの存することは、後記のとおりである。

したがって、被告人らが第一審判決の認定したような変則的な貨車の切りはなし方をしたかどうかも疑わしいところであるばかりでなく、原判決が「トム」の肘コックは開通されている、と認定した第一審判決を是認する以上、経験則からいって、西岡鑑定の見解[1]は相当の合理性があるのに、同判決がなお、明確な証拠によらず変則的切りはなし方法をとったものと認定した第一審判決を維持しているのは事実誤認の疑いがある。

(二)  次に、被告人らが本件残留四貨車を二両ずつに切りはなしたことを認定するためには、果してそれだけのことをする作業時間があったかという点からも検討を加える必要がある。原判決がこの作業時間、すなわち犯行所要時間を認定するについては、昭和二八年五月一四日附保土田、和田両警部補作成の「国鉄青梅線小作駅構内に於ける貨車流し実験状況報告」と題する書面(否認組関係)の記載を資料としていることがその判文上明らかであるが、原判決の判示する犯行着手可能時刻および犯行終了推定時刻と、右実験報告書の記載とを綜合して推算すると、原判決は、被告人らが本件残留四貨車の位置に到着してから二両ずつに切りはなして前二両の発送準備を完了するまでの作業時間を、せいぜい一八秒程度(犯行着手可能時刻午前六時四一分四五秒から犯行終了推定時刻午前六時四三分一七秒までの一分三二秒より、前後二回に貨車二両ずつを押し出すに要する時間--右実験報告書の記載によると、前二両が三三秒、後続二両が四一秒、合計一分一四秒程度を要するとされている--を控除したもの。)とみていることがうかがわれる。そして右実験報告書に記載された警察官の代役による実験の結果によると、この作業時間は第一回目一五秒半、第二回目一六秒というのであるから、一見、作業時間は充分にあるようにみられるのである。

しかしながら、右実験報告書によると、本件残留四貨車のエァー抜きをしたのは、被告人中垣好一、同野崎両名の役割を一人で代ってつとめた保土田豊吉だけということになっており、それもどの貨車のエァーを抜いたのか、一人で何両抜いたのかという点については全く明らかにされていない。ところが、昭和二九年二月一九日施行の第一審検証調書および前記西岡直人の第一審証言などによると、各貨車についているゆるめ弁を引いてエァー(空気)を抜き、制動(ブロック、すなわち制輪子のこと)がゆるむまでには、約三〇秒ないし四〇秒(右検証の際の実験では三五秒。)かかり、それも当該貨車だけしかゆるまないというのである。また原判決の判示するように、本件残留四貨車に貫通制動がきいていたとみられる場合には、一六秒や一八秒程度のことでは、前二両のエァーを抜いて制動をゆるめ、これを押し出すことは不可能であるとも考えられるのである。そうだとすると、この実験報告書をもってただちに時間的に本件犯行が可能であったと認定することにも疑問がある。

(三)  さらに原判決は、二月一九日事件は被告人山下らが自然流出事故に偽装して仕組んだ犯行であるとも考えられる旨判示しているのであって、自然流出事故に偽装するためには、むしろ本件残留貨車四両を連結したまま逸走させることを要すると思われるのにかかわらず、一方では被告人らが本件残留四貨車を二両ずつに切りはなして二回にわたり押し出すという犯行を認定した第一審判決を維持しているのであるが、このようなことをすれば、よほどうまく加減して押し出さない限り貨車が二両ずつ別々に流れ続ける可能性があるのであるから(否認組関係で取り調べられた野村義夫作成の「貨車の速度調査書」と題する書面および同人の第一審第四三回公判証言によれば、現に前記保土田、和田両警部補によって行なわれた貨車流し実験の際のような押し方では、後続二両が前二両に追いつかないことが明らかである。)、このような作業をすること自体、自然流出事故を偽装することとは矛盾するものといわなければならない。

以上述べたように、原判決の説示するところによっては、いまだ本件残留四貨車が二両ずつに切りはなされたものと速断することを得ないものというべきである。

三、被告人山下のアリバイについて。

原判決は、被告人山下が中田理髪店(中田清一方)に雪の降った同店の休みの日(火曜日)に煙突掃除に来たこと、その時榎本寿助は自転車のチェンが切れたといって被告人山下の掃除が終った頃来たこと、などを認めたうえ、それは昭和二七年二月一九日当日のことではないとして、同被告人のアリバイの主張を排斥しているが、この点もまた争点の一つである。

(一)  被告人山下のアリバイの主張がなされるに至った経過は、原判決説示のとおりであるが、第一審判決は、雪の降った二月中の火曜日の朝、同被告人が中田方に煙突掃除に行ったのは昭和二八年二月のようにも思われる旨判示して、右主張を排斥しているのである。

しかし、原審で取り調べた横浜地方気象台長作成の回答書によって、昭和二八年二月の火曜日には降雪の日はないことが明らかとなり、原判決は、審理の結果、「被告人山下と榎本が二人で中田方に仕事に行ったのは、昭和二六年一二月五、六日頃から翌二七年四、五月頃までのことであるという榎本寿助の第一、二審証言を一応措信できる」としたうえ、「昭和二七年二月一九日に榎本が中田方に煙突掃除に行ったことは事実と思われるが、それは榎本一人が行ったものであり、被告人山下と二人で雪の日に行ってチェンが切れたというのは他の日のことであるとも考えられる」とする。そして、「昭和三〇年三月三〇日付横浜測候所長作成の(気象状況回答について)と題する書面の記載に徴すれば、昭和二七年二月一九日は一時四五分から一三時二四分まで、及び一五時四二分から二三時一〇分までの二回に降雪があり、積雪一〇時観測三・二糎、最深三・七糎(一四時)とあるので、同日朝は大雪の朝という程のものではない。(なお前日に三回降雪があったが積雪はない)この外同年同月二六日(火曜日)にはその前日二〇時五五分から降雪があり、(前日の最深積雪は二四時で一・〇糎)これが当日二時四八分まで続いてその後は降っていないが、積雪としては一〇時観測一・七糎、当日最深三・七糎(六時〇分)とあるので、これを前示一九日の積雪一〇時観測三・二糎と比較してみると、午前八時頃の積雪量としては、二月一九日の朝と大差ないものというべく、二月二六日(火曜日)もまた雪の朝ということができる。果してしからば、この二六日が山下と榎本とが二人で中田方に仕事に行き、榎本がチェンを切った日に該当するとも考えられるのである。関係人としてはこの両日の朝(いずれも雪が降った火曜日の朝)のことについて、記憶が混同したのではないかと思われ、とくに榎本としては、前示吉沢日誌から一図にそれが同年二月一九日のことと思い込んだものと考えられるのである。このことは、同人の第一審証言中に、雪の降った日に中田の床屋に煙突掃除に行ったのは、その日(二月一九日)一回だけであると述べて、次週の二六日のことに触れていないことからも窺知されるところである。」旨判示し、けっきょく被告人山下のアリバイの主張を排斥しているのである。

(二)  ところで、被告人山下と榎本が二人で中田方に煙突掃除に行ったという雪の降った火曜日(中田理髪店は当時毎週火曜日が店の休みであり、その関係から毎週火曜日に煙突掃除をすることになっていたことが証拠上明らかである。)が、昭和二六年一二月から同二七年四、五月頃までの間のことであるとするならば、原判決の引用する前記横浜測候所長の気象状況回答書(否認組関係)と暦とを対照してみると、昭和二七年一月から三月にかけての三カ月間に、横浜において雪の降った火曜日というのは二月一九日と二月二六日の両日だけであることが明らかであり、右問題の火曜日は、右両日にしぼられると考えてよい。ただ右横浜測候所長の回答書によれば、二月一九日はほとんど一日中雪が降り続いていたのに対し、二月二六日は夜中の二時四八分に雪は降り止んで、あとはほとんど一日中雪が降っていないことが認められ(この事実は、前示のように原判決も認めている。)、この点が右両日の大きな違いであるということができる。

原判決は、右両日とも午前八時頃の積雪量としては大差ないもので、ともに雪の朝といえるし、関係人の記憶が混同したと思われると判示しているのであるが、証人中田清一の第一、二審証言(否認組関係で第一審昭和三一年三月一二日証人尋問調書、全被告人関係で原審第七回公判証言。)、同中田トヨ子の第一審証言(否認組関係で第一審昭和三一年三月一二日証人尋問調書。)、同榎本寿助の第一、二審証言(否認組関係で第一審昭和三一年三月一二日証人尋問調書、全被告人関係で原審第七回公判証言。)を検討すると、同人らはいずれも、被告人山下と榎本が二人で煙突掃除に来た問題の日は、雪が降っていた、とか、降り続いていた、とか述べているのであって、ことに右証人榎本寿助の第一審証言は、「私は雪が降っている最中に煙突掃除をしたのは田中理髪店位のものですから、それでよく想い出したものです。」「私は自転車のチェンが切れてしまい、山下が先に行って煙突掃除をしているところへ行ったのです。掃除は全部山下がしました。」「雪が降っているとき私の自転車のチェンが雪の中に入ったのをよく記憶しています。」「降っている最中に中田の床屋へ行ったのは一回だけです。又チェンが切れたのもそのとき一回だけです。」というのである。したがって、同人が右両日の記憶を混同しているとは、にわかに断ずることができず、原判決が、たまたま次週二月二六日の火曜日もまた雪の朝であるということから、たやすく関係人が記憶を混同したものとし、この二六日が問題の火曜日に該当するとも考えられるとしたことも、にわかに肯認することができない。

四、結論。

以上説示したように、第一審判決の認定事実を是認した原判決は、少くとも二月一九日事件につき被告人らの自白その他の証拠の価値判断を誤った疑いがあり、その判断はにわかに首肯できないものである。そして本件公訴事実の大要は、前に摘示したとおり二月一九日事件を含む五つの列車妨害事件であるところ、原判決の一部に右のような疑いが存する以上、原判決には、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認を疑うに足る事由があるに帰し、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

よって、その余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法四一一条三号により原判決を破棄し、同四一三条本文により本件を原裁判所である東京高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岩田 誠 裁判官 入江俊郎 裁判官 松田二郎)

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